016314_cultural_property_202404.csv
都道府県コード又は市区町村コード NO 都道府県名 市区町村名 名称 名称_カナ 名称_通称 名称_英語 文化財分類 種類 場所名称 所在地 緯度 経度 電話番号 内線番号 員数(数) 員数(単位) 法人番号 所有者等 文化財指定日 利用可能曜日 開始時間 終了時間 利用可能日時特記事項 画像 画像_ライセンス 概要 概要_英語 説明 説明_英語 URL 備考
016314 1 北海道 音更町 家畜改良センター十勝牧場 カチクカイリョウセンタートカチボクジョウ 駒場並木8番地1 43.055399 143.161161 明治43(1910)年、国は、日露戦争を契機に、馬産改良に重点を置き、「十勝種馬牧場」を創設しました。当初の面積は約13,756ha。戦前は種馬の繁殖と改良を任務とし、民有馬の種付業務を行い、馬産王国十勝の発展に大きく貢献しました。現在の総面積約4,092haで、馬・めん羊・乳牛・肉用牛の家畜改良、飼料作物種子の増殖と畜産技術者の養成を行っています。牧場は、大正12(1923)年に陸軍省から農商務省(農林水産省)に移管され、名称を、「十勝種馬所」「十勝種畜牧場」「家畜改良センター十勝牧場」へと変えました。明治末期の旧事務所は、白樺並木の北にあり、往時をしのばせています。 標柱あり 案内板あり
016314 2 北海道 音更町 名木等(白樺並木) メイボクトウ 駒場並木 43.046457 143.171366 平成2(1990)年、音更町開基90年記念事業の1つとして名木・美林10件が指定されました。駒場並木にある白樺並木(長さ1.3km)は、その美しさから、観光スポットの1つになっています。
016314 3 北海道 音更町 十勝駒踊 トカチコマオドリ 音更町指定文化財 大正5(1916)年に青森県の奥羽種畜場から十勝種馬所に転勤してきた職員が指導して始まり、洞内南部駒踊を継承しています。昭和53(1978)年に保存会が設立され、毎年駒場神社秋祭りに奉納されています。
016314 4 北海道 音更町 国鉄士幌線駒場駅跡 コクテツシホロセンコマバエキアト 駒場本通1丁目13番地30 43.047178 143.187102 駒場駅は音更駅から5.6km。駅名は当初「桔梗が丘」で周囲に民家はありませんでした。しかし、6km先に十勝種馬所(現家畜改良センター十勝牧場)があることから「駒場」に変更されました。戦前は馬が貨車で移送されました。近隣の農民をはじめ東中音更、西中音更、南中音更、上然別等の人々がこの駅を利用していました。 標柱あり 案内板あり
016314 5 北海道 音更町 中士幌駅逓跡 ナカシホロエキテイアト 東音更幹線62番地1 43.083105 143.207714 駅逓は、入植者や旅人の交通の便を図るために設置され、宿泊業務・物資や郵便物を次の駅逓まで馬で運んでいました。宿風に建てられた厩舎もありました。明治25(1892)年、下帯広村に官営駅逓が設けられて以降、内陸部にも置かれました。音更初の駅逓として、明治41(1908)年、市原勇吉が中士幌駅逓を設置。「人馬継ぎたてと旅人宿」として、牝馬3頭を配置し、大正末期まで運営されました。奥地開発の重要な中継地で、北に「寺町」(現士幌町「美濃の家」付近)が形成され、この「寺町」は推定戸数90戸、人口500人で、帯広以北随一の繁華街でした。 標柱あり 案内板あり
016314 6 北海道 音更町 国鉄士幌線武儀駅跡 コクテツシホロセンムギエキアト 東音更幹線36番地22 43.06373 143.207112 武儀駅は駒場駅から2km。昭和31(1956)年12月に設置された無人駅で、武儀団体が入植した地域の住民陳情により設置されました。武儀から駒場駅に行くには線路と鉄橋を渡って往来していて、大変危険なことから新駅設置の要望となり、駅設置時には約80万円を住民が拠出しました。住民の熱意に応えた設置でした。 標柱あり 案内板あり
016314 7 北海道 音更町 岐阜県「武儀団体」入植地 ギフケン[ムギ]ダンタイニュウショクチ 東音更幹線25番地4 43.054503 143.207143 明治30(1897)年4月8日、岐阜県武儀郡中有知村は肥沃な土地でしたが、大水害、集中豪雨、加えて濃尾地震(明治24年)の惨状下にあり、団長、中田宮五郎は2班に分かれてオベリベリ、そして中士幌に入地し、5年間で27戸が中士幌0号から9号までの区間に入植しました。彼は、オベリベリ滞在中、団員の不満を説得し、未開地の困難な開拓に団結して取り組むことを訴えました。また、堀勝十郎は明治31(1898)年、自宅で児童7名による「寺子屋式教授場」を開きました(音更で始めての学校)。その後、説教所・神社を設置、青年たちの文化活動等が盛んに行われていました。 石碑あり 標柱あり 案内板あり
016314 8 北海道 音更町 音更町寺子屋教育発祥の地 オトフケチョウテラコヤキョウイクハッショウノチ 東音更幹線11番地4 43.044198 143.205218 小学校から大学までの学制が明治5(1872)年にしかれ、教科書が明治19(1886)年に国定とされる中、明治30(1897)年、岐阜県から「武儀団体」が中士幌原野に入植しましたが、子弟の教育の機会、設備が無く親たちの悩みでした。明治31(1898)年、幹線12番地に堀勝十郎が児童7名を自宅に集めて「寺子屋式教授場」をつくりました。これが音更初の師弟教育の始まりです。以後、各農場や団体移民・然別・下士幌等地区ごとに「簡易教育所」「特別教授所」等が設置されていきました。 標柱あり 案内板あり
016314 9 北海道 音更町 音更ふるさと資料館分館 オトフケフルサトシリョウカンブンカン 東音更西2線25番地 43.055504 143.221197 旧南中士幌小学校の教室に、馬車や馬橇等大型の農機具等を中心に、45点程が展示されています。
016314 10 北海道 音更町 東士幌競馬(白川競馬) ヒガシシホロケイバ(シラカワケイバ) 東音更東4線17番地2 43.044495 143.259776 十勝の開拓にとって馬(南部馬が起源の北海道和種馬“通称ドサンコ)は、原野の木株を伐根、農耕馬、荷物・人を運び、後には軍馬への徴用など開拓農民にとって、寝食を共にする家族同然に大切にされ重要な役割を果たしてきました。明治41(1908)年から、東士幌神社の秋季祭典の余興として草競馬が始まり、創設者、白川勝太郎氏の名にちなんで「白川競馬」と呼ばれました。当初は、農耕馬を持ち寄ってスピードを競っていましたが、馬場が狭いため、いつしか重いそりを引く「輓曳(ばんえい)」のレースに変わりました。機械化の進展により馬が減少する中、十勝はもとより道内各地から大勢の馬主が集まり、賑やかに開催されました。平成23年、第100回をもって長い歴史に幕をおろしました。 標柱あり 案内板あり
016314 11 北海道 音更町 バッタ塚跡 バッタヅカアト 東音更東4線17番地1 43.043084 143.259443 明治13(1880)年から明治17(1884)年までの5年間連続で、トノサマバッタの異常発生がありました。「太陽が陰るほど大空を覆い、それが地上に舞い降りたかと思うと草も木の葉もたちまち食い尽くし、そればかりか、家屋の障子の紙などまで食いちぎる」という大襲来でした。この蝗害は、十勝・日高・胆振・石狩の4ヶ国を襲い、作物に莫大な被害を与える重大問題となり、駆除のため卵塊や幼虫・成虫などを買い取り、これを埋め、土を盛って塚とした跡が、バッタ塚跡です。 標柱あり 案内板あり
016314 12 北海道 音更町 十勝坊主 トカチボウズ 音更町指定文化財 東音更東6線41番地2 43.061852 143.280439 今から2千〜4千年前の寒冷期に生成したこの化石土は、構造土の一種で、過湿性火山灰土壌にでき、日本では十勝で最初に発見されたのでこの名がつけられました。外見は土まんじゅうの形をして群落をなし、ここに331個が確認されています。1個の大きさは、直径1〜1.5m、高さ0.5〜1mと形はさまざまです。成因については、帯広畜産大学田村昇市教授によると、この地帯は過湿な地帯で、過去の寒冷期に夏の昼間は表層が融け、夜間は急冷する。この時、氷が生成して土を加圧し、下層は永久凍土層のため隆起し、凸状になる。これが繰り返されて現在のような形になったものです。(氷加圧説) 標柱あり
016314 13 北海道 音更町 戯曲「火山灰地」素材地 ギキョクカザンバイチソザイチ 長流枝幹線145番地4 43.03052 143.346132 昭和7(1932)年、全国農民組合北海道聨合会オサルシ支部を中心に、焼子争議が起きました。焼子の作業中の事故で報告がなかったことを理由に解雇。これに抗議して、ワッカクンネップの沢沿いに、親方宅に解雇撤回行動を行い、最後には親方は調停案を呑みました。解雇撤回・借金棒引・検束者の釈放等の要求実現は、山で働く人々の歓呼の喜びとなりました。ここに林産物検査所もありました。また、劇作家、久保栄が昭和12(1937)年に発表した戯曲「火山灰地」(翌昭和13年上演)第1部第3幕の「かま前検査」の素材地です。 標柱あり 案内板あり
016314 14 北海道 音更町 富山県「江波(よなみ)団体」入植地 トヤマケン「ヨナミダンタイ」ニュウショクチ 東士狩西6線57番地3 43.021185 143.148375 明治30(1897)年2月25日、富山県西砺波郡高波村大字江波村の西嶋要次郎、中川磯次郎らは、同志を募り23戸41名の記名で「移住規約書」を作成、県庁に出願し郷土を出発、農民だけではなく大工や壁屋も参加しました。この団体は、西4線から西8線、7号から12号の東士狩地区に入地しました。彼等は団体移住規約で「各自同一ノ権議ヲ有スル自作農ニシテ、土地貸下期間中ハ小作ヲ為ス」とし、「百姓は作物の看護人」(中川次吉)として開拓に精を出しました。また、簡易教育所・寺院・信用販売購買利用組合を設置、郷土の獅子舞の保存継承等、地域発展の基礎をつくりました。 石碑あり 標柱あり 案内板あり
016314 15 北海道 音更町 東士狩獅子舞 ヒガシシカリシシマイ 音更町指定文化財 東士狩地区は、明治30(1897)年、富山県から江波(よなみ)団体として23戸が入植したことに始まり、郷里で獅子方のメンバーだった者が中心になり、郷里から道具衣装を取り寄せ、明治35(1902)年、東士狩神社の春祭りに奉納しました。義務的でなく地域の人達が参加しやすいようにと工夫しながら保存継承し、毎年東士狩神社の秋祭りに奉納されています。
016314 16 北海道 音更町 戦車退避壕跡 センシャタイヒゴウアト 東士狩西6線38番地5 43.003812 143.153517 昭和19(1944)年9月、北部軍令部戦車隊「戦車22聯隊」は、軽戦車など約60両を配備し、本部を音更小学校(のちに音更青年学校)に設置。村内の昭栄、駒場、門前、矢部、然別、開進、音更川沿いの樹林などに分散して配備しました。太平洋戦争末期、アメリカ軍の敵前上陸に備え、戦車を覆い隠すために「戦車退避壕」が掘られ、迷彩色の網で覆われていました。この濠は、縦15m、横5m、深さ2mですが、当時はもっと大きかったと思われます。現在、はっきりした形で残る戦車退避壕跡は、ここ矢部地区にあるのが唯一で、貴重な遺跡です。 標柱あり 案内板あり
016314 17 北海道 音更町 富山県「矢部団体」入植地 トヤマケン「ヤベダンタイ」ニュウショクチ 東士狩西7線34-12 43.000841 143.1478778 明治30(1897)年2月、富山県西砺波郡山王村大字矢部村から団体長、田守太吉ら一行、25戸90人は伏木港を出発、函館での乗換え時、定員超過のため数名が逗留、遅れて乗船するもエリモ岬の荒波に航海出来ず、日高の幌泉に上陸。陸路9日間かけて伏古村にたどり着くなど苦難の旅路を続けた入植者もいました。開拓地は音更の南西部、西4線から西8線、2号から7号の矢部地区。5年後に約5haずつ耕作者のものになりました。入植者は、自分たちが開拓した土を「清土」として封緘し、神体として奉ったのが住吉神社です。 石碑あり 標柱あり 案内板あり
016314 18 北海道 音更町 矢部獅子舞 ヤベシシマイ 音更町指定文化財 矢部地区は、明治30(1897)年に富山県から25戸が集団移住したことに始まり、郷里から衣装道具一式を取り寄せ、郷里での経験者が指導者となって練習を重ね、明治37(1904)年4月、住吉神社鎮座祭に奉納したのが始まりです。地域の強い結束力で保存継承され、毎年住吉神社の秋祭りに奉納されています。
016314 19 北海道 音更町 然別渡船場跡 シカリベツトセンバアト 然別北5線西40番地2 42.953676 143.15754 明治26(1893)年に然別西7号から伏古別7号(現帯広市西17条付近)にかけて「渡し舟」が私設で行われていました。音更の渡船の歴史では最も古く、さらに明治29(1896)年、中島1号先に「たぐり渡船」が始まりました。明治33(1900)年、然別西7号から伏古別7号(現帯広市西17条付近)間に官営で「然別渡船場」が開業し、船賃は人が2銭、馬は4銭でした。当時の然別川奥地の人達にとって、帯広と往来する上で重要な渡船場でした。その後、昭和10(1935)年頃まで西帯広との往来に人だけを乗せていました。 標柱あり 案内板あり
016314 20 北海道 音更町 渡辺勝の記念碑 ワタナベマサルノキネンヒ 然別北5線西40番地 42.953552 143.15763 松浦武四郎の紀行文「十勝日誌」「東蝦夷日誌(第7編)」の2冊にシカリベツブトが記述されていて、シカリベツブトはアイヌ民族の人々が居住していた場所であり、幕末期の音更にとって重要な場所となっています。明治22(1889)年6月7日、渡辺勝がシカリベツブトに牧場を開き、小屋掛けをした日が然別開拓の日です。彼は明治26(1893)年この地に定住しています。明治29(1896)年、殖民地貸付停止解除とあわせて大量の移住が始まりました。渡辺勝とカネはオベリベリ(帯広市)入地後、この地を中心に「音更コタン」のアイヌ民族の世話係やシカリベツ開拓のさきがけとして、地域発展のために大きな役割を果たしました。 石碑あり
016314 21 北海道 音更町 音更町発祥の地碑 オトフケチョウハッショウノチヒ 下士幌北2線東41番地 42.945376 143.247949 明治13(1880)年、岩手県人大川宇八郎翁が最初の和人としてこの地に定住し、多くの入植者を助け、開拓の祖として敬慕されました。百年の昔より樹海茫々未踏の原野に鍬を振い、豊かな理想郷を築かんと風雪に耐え、幾多の苦難を克服してきた先人の偉業のうえに今日の音更町があることを忘れてはなりません。我々はこの大いなる遺産を受け継ぎ、さらに飛躍する礎として、この碑を建立し次代に引き継ぐものです。昭和55(1980)年、町開基80年記念事業の1つとして、大川宇八郎翁が晩年まで居住していた下士幌富丘地区の本照寺境内に建立されました。 石碑あり 標柱あり
016314 22 北海道 音更町 大川宇八郎顕彰碑 オオカワウハチロウケンショウヒ 下士幌北2線東41番地 42.945397 143.248028 大川宇八郎は、岩手県に生まれ、商人として来道し、明治13(1880)年「ムメ(福平地区)」に来住。その年「サッテキ・ヲトフケ(相生中島)」に定住しました。音更での和人の始めての定住者でした。この中州の島(3つ)は、十勝川と札内川との合流点にあって、大津港が十勝入植者の玄関口にしていた時代、ここに船着場等があり内陸部への交通の中継地でした。明治31(1898)年、大水害で島々の大半は流失しましたが、当時この地区には34戸が入地していました。以後、大川宇八郎は高台(相生)に移住し、馬中心の放牧をしていましたが、多くの入植者を助け信頼が厚く、和人はもとよりアイヌ民族の人々からも敬慕されました。昭和35(1960)年開基60年に、町と町民有志により顕彰碑が建立されました。 石碑あり
016314 23 北海道 音更町 ヤマニ渡船場跡 ヤマニトセンバアト 下士幌北2線東50番地15 42.943435 143.257194 十勝川にあった「サッテキ・ヲトフケ」(中島)に渡るために、下士幌北2線東8号地先から人だけを渡船していました。大川宇八郎が個人で管理運営し「ヤマニ渡し」といわれていました。また、サッテキ・ヲトフケから札内川のたもとにつながる渡しがあったなど、川の流れ等により渡しの位置も大きく変わりました。当時のサッテキ・ヲトフケには14戸の開拓農家が入植し、舟運で雑穀を大津まで搬送していました。明治31(1898)年には34戸の農家が住んでいました。 標柱あり 案内板あり
016314 24 北海道 音更町 十勝の水田発祥地 トカチノスイデンハッショウチ 下士幌北2線東56番地 42.946219 143.263705 明治27(1894)年、下士幌の増田立吉は、士幌川河岸に水稲約0.5haを作付し、152kgの米を収穫しました。彼は、明治25(1892)年に渡島国亀田村より種籾を持って士幌川下流地に入地し、十勝初の水稲試作を行いました。北限とされる十勝地方での米作成功は、大きな喜びであり、多くの開拓者が訪れ教えを受け、明治28(1895)年には6戸が入地するなど、士幌川下流地域は水田耕作で賑わいをみせ、今日の下士幌発展の基礎をつくりました。 標柱あり 案内板あり
016314 25 北海道 音更町 久保栄 文学碑 クボサカエ ブンガクヒ 長流枝1番地109 42.982973 143.286609 「山からおろした切り木の束に つくる喜びと生きる呪ひをこめて 今日も明日も焼く炭燒窯」久保栄  久保栄は、十勝地方の大冷害・凶作の中で生き抜く小作農民や焼子の生活、小作・焼子争議を調査して、昭和12(1937)年戯曲「火山灰地」を発表。十勝農事試験場長の十勝農業を守り、土に生きる良心的研究者の苦悩が語られています。昭和13(1938)年、東京で上演後は上演禁止。昭和23(1948)年に俳優座が、昭和36(1961)年に劇団民芸が上演しました。2部7幕構成のすぐれた文学作品です。 石碑あり 標柱あり 案内板あり
016314 26 北海道 音更町 ハナック(花時計) ハナック(ハナドケイ) 十勝川温泉北14丁目4番地 42.939986 143.300449 昭和57(1982)年に十勝が丘公園に作られた、直径18mのジャンボ時計です。かつては世界一としてギネスブックにも掲載された花時計で、春から秋まで美しい花に彩られています。
016314 27 北海道 音更町 いしぶみの丘 句歌碑 イシブミノオカ クカヒ 十勝川温泉北15丁目3番地 42.939014 143.302826 平成12(2000)年、音更町開町百年記念事業の一環として設置され、十勝が丘公園の一隅に、町民の詠んだ句碑41基、歌碑5基があります。 石碑あり
016314 28 北海道 音更町 十勝馬唄歌碑 トカチウマウタカヒ 十勝川温泉北13丁目2番地 42.937359 143.298836 十勝の開拓は、人馬一体となって広大な原野を開墾した苦難の歴史でありました。その後、馬産振興のもとに日本一の馬産王国を築きました。当時の隆盛を“十勝開拓の心の唄として十勝民謡同好連盟により、昭和41(1966)年8月に作詞、大野恵造・作曲、堀井小二朗・歌唱、橋本芳雄によって「十勝馬唄」が発表されました。以来、四季を織りなす歌詞と悠長で明るいメロディーが十勝を代表する郷土民謡となりました。昭和57(1982)年7月「十勝馬唄保存振興会」により歌碑が建立され、揮毫は、時の国務大臣中川一郎科学技術庁長官。台座には躍動する群馬が刻まれています。 石碑あり 標柱あり 案内板あり
016314 29 北海道 音更町 十勝川温泉1遺跡 トカチガワオンセンイチイセキ 十勝川温泉南14丁目 42.93835 143.321364 この遺跡は、十勝川温泉市街の東南東の河岸段丘上にあり、縄文時代全期間の遺物が採取され、生活するには極めて恵まれた環境にあったと思われます。この遺跡の区域内では、十勝川温泉浄化センターの建設工事等に伴って、過去4回発掘調査が行われています。
016314 30 北海道 音更町 亜炭採掘、コーライト窯跡 アタンサイクツ、コーライトカマアト 十勝川温泉地先 河川敷地 42.937555 143.317088 昭和17(1942)年、十勝川温泉の池田町界近くで、「北邦亜炭鉱業所」が深谷真光の創業で、亜炭と亜炭をコークスにする「コーライト」を生産しました。コーライトは軍の指定を受け急増し、名称も「日本亜炭鉱業所」と変わりました。昭和19(1944)年、岩井鉄次郎に経営が移り、亜炭、コーライトの増産が進みました。戦後、コーライト生産の窯は閉鎖されましたが、栗美国夫が経営し亜炭を生産していました。その後、川島吉蔵が生産を行いますが、昭和38(1963)年に閉鎖されました。戦前のコーライト生産の窯が残っていて貴重な遺跡です。 標柱あり 案内板あり
016314 31 北海道 音更町 十勝川温泉チャシ跡遺跡 トカチガワオンセンチャシアトイセキ 十勝川温泉9番地50 42.928993 143.306317 平成7(1995)年、道道帯広浦幌線改良工事に伴う発掘調査が行われ「標高60m、比高(高低差)20m、郭内規模100m、弧状2条、丘頂式チャシ」と報告されています。17点の土器は小破片で出土、石器5点と?片141点、削器などが発掘されています。チャシの形成時期は16世紀以降と言われています。【※チャシの説明はP9、№37を参照】
016314 32 北海道 音更町 仁禮(音幌)農場事務所跡 ニレ(オトホロ)ノウジョウジムショアト 大通2丁目4 43.00132 143.194219 明治30(1897)年、元海軍大臣で子爵、仁禮景範は、音更では最初の無償貸付を受け、仁禮農場を開きました。土地は下音更・下士幌・中音更各原野にまたがり、音更川が中央に貫流し地味の良いところでした。しかし、水害でたびたび農地は流されました。面積約492ha、入植者70戸、管理人に金子安蔵が就任し、管理人事務所は、明治42(1909)年に現在の大通2丁目に建てられました。景範の死後、長男は戦死、次男が継ぐが経営が悪化し、大正7(1918)年、娘婿の齋藤實(まこと)が農場を買い取り「音幌農場」としました。昭和4(1929)年、小作農民との「耕作権」をめぐって「音幌農場小作争議」が起こりました。
016314 33 北海道 音更町 谷汲山観音寺 タニクミヤマカンノンジ 桜が丘1番地3、4 42.999754 143.195454 昭和5(1930)年、村民の中の美濃衆が中心となり、故郷の岐阜・谷汲山華厳寺のご分身を持参するなど、多くの人々の協力で本堂が建てられました。前年の昭和4(1929)年の世界恐慌により、国内でも倒産・失業者があふれる中、「音幌農場小作争議」が起こり、その後、かつて音幌農場所有者であった齋藤實(第3代朝鮮総督)が土地を寄進し、さらに金2,000円を寄付。この土地は明治30(1897)年9月、仁禮景範に無償で払い下げられ、大正7(1918)年に仁禮(音幌)農場を齋藤實が譲り受けたもの。激動の時代の民生安定を願って、この寺院が建立されました。 標柱あり 案内板あり
016314 34 北海道 音更町 国鉄士幌線音更駅跡 コクテツシホロセンオトフケエキアト 大通6丁目1番地30 42.997606 143.200101 音更駅は木野駅から5.6km。音更市街には村役場や仁禮(音幌)農場事務所があり、後の産業組合や精米所等もありました。駅前は農産物の集散地として構内に野積みされるなど活気に満ちていて、音更川西側の農家の人達や東側の人達が駅を中心に往来していました。 標柱あり 案内板あり
016314 35 北海道 音更町 河東郡総鎮守の杜「音更神社」 カトウグンソウチンジュノヤシロ「オトフケジンジャ」 大通11丁目4番地4 42.992829 143.199938 開拓者にとって、心のよりどころは神・仏への信仰でした。音更神社は明治33(1900)年、仁禮(音幌)農場内に祠を設け「天照皇大神」を祀り創祀元年とし「音幌神社」と称え、明治34(1901)年10月、「音更ほか二村戸長役場」の設置によって「音更神社」と改称し、今日に至っています。杜の面積約5ha、樹齢500年を越えるご神木など、北海道環境緑地保護地区となり、平成2(1990)年、音更町の名木・美林に指定されました。また、劇作家、久保栄が昭和12(1937)年に発表し、翌年に上演した戯曲「火山灰地」第2部第6幕の神社の秋まつりの素材地になっています。 標柱あり 案内板あり
016314 36 北海道 音更町 名木等(2)(楡・楢・柏) メイボクトウ 元町3番地 42.99282 143.199543 平成2(1990)年、音更町開基90年記念事業の1つとして名木・美林10件が指定されました。音更神社境内にある楡、楢、柏は、開拓当時の音更の姿を今に残す美林として指定されました。
016314 37 北海道 音更町 千畳敷公園チャシ跡 センジョウジキコウエンチャシアト 元町3番地5 42.99287 143.197788 チャシは、「柵・囲・砦」を意味するアイヌ語です。チャシコツはチャシ跡のことをいいます。チャシの用途は、チャシの構築された年代にもよりますが、本来「外敵に対する防御の目的をもって構築された」と広い意味で解釈されています。このチャシは、標高75m、比高(高低差)7mに構築された丘先式(きゅうせんしき)という形態です。周囲は、音更神社の包み込む台地にあり、現在の音更町役場との境界筋に沢が存在していて、この沢は旧音更川支流(ポン川)に繋がっていたとみられます。これは、チャシの構築に地理的要件にかなうものですが、戦争中分駐していた軍によってチャシの面影を破壊され、後年、公園造成時に埋め立てられて一部のみしか残っていません。 標柱あり 案内板あり
016314 38 北海道 音更町 音更ふるさと資料館 オトフケフルサトシリョウカン 希望が丘1番地 42.991099 143.195444 郷土音更の歴史を伝える郷土資料の収集・保存・展示を行っています。生活用具1,233点、生産用具366点の合計1,599点が収蔵されています。また、これまで町内で発掘調査により出土した遺物が展示されています。
016314 39 北海道 音更町 旧中川氏住宅(音更ふるさと資料館内に部分復元) キュウナカガワシジュウタク 希望が丘1番地 42.991099 143.195444 大正初期、東士狩に建てられた住宅で、中川信一氏の郷里である富山地方の家造りの風格を今に伝えています。この住宅が新築された時代は、第一次世界大戦の時、十勝のえんどう等は5〜8倍の高値で売買され「豆成金」の時代で、多くの農家は住宅を新築しました。
016314 40 北海道 音更町 音更飛行場跡 オトフケヒコウジョウアト 希望が丘1番地 42.990998 143.196072 大正14(1925)年5月13日、村医、有田喜代平を会長として青壮年有志による「音更民間航空設置期成同盟」が結成され、関東以北で初の民間飛行場として、音更3号の高台、音更神社の南側のこの地(現生涯学習センター)の雑木林を切り開いて開設されました。開場式には、永田一等飛行士によりイギリス製アブロ式複葉機で記念飛行が行われ、来賓300人、観衆10,000人を越えたと記録されています。その後、機関士から飛行士となった上出松太郎の献身的な努力がありましたが、昭和4(1929)年春、飛行場は閉鎖となりました。 標柱あり 案内板あり
016314 41 北海道 音更町 伊福部昭を讃える音楽記念碑跡 イフクベアキラヲタタエルオンガクキネンヒアト 東和西2線 42.99808 143.21948 平成13(2001)年、伊福部昭の功績を讃え、その名を後世に残したいと、多くの町民から記念碑建立を望む声があがり、町民有志による「伊福部昭を讃える音楽記念碑建立委員会(代表 中村定二)が設立。北海道庁林務官として務めた経緯などから、建立場所にここ「音和の森自然公園」を選定、平成14(2002)年5月20日、修祓式が執り行われました。令和4(2022)年、経年劣化と強風により記念碑が倒壊したため、現在は町により、音更町文化センターの野外広場に移設・再整備されています。【※関連P11、№48参照】 標柱あり 案内板あり
016314 42 北海道 音更町 三号渡船場跡と音幌橋 サンゴウトセンバアトトオトホロバシ 東通12丁目4番地3 42.992673 143.209966 大正初期から昭和13(1938)年頃まで、私設の渡船場がありました。昭和・長流枝・下士幌方面と音更市街を結ぶ唯一の交通手段として利用されていました。当時の音更川は水量も多く乱流で、たびたび水害が起こりました。私設の「音幌橋」は、昭和28(1953)年に吊橋が架けられましたが、洪水で流失し、町は、昭和37(1962)年木橋(橋長36m)を架橋しましたが、これも昭和42(1967)年に流失。5年間の不便を強いた後、昭和46(1971)年、コンクリート製の永久橋「音幌橋」(橋長318m)が架橋されました。 標柱あり 案内板あり
016314 43 北海道 音更町 音更ほか二村戸長役場跡 オトフケホカニソンコチョウヤクバアト 新通17丁目2番地8 42.983115 143.205978 明治34(1901)年10月15日、「下帯広ほか十一ヶ村戸長役場」から、「音更」「然別」「東士狩」の河東郡3ヶ村が分離、「音更ほか二村戸長役場」を下音更に置き、3ヶ村合同の役場が設置されました。この役場は下音更東1線8番地(現大通17丁目)の山本安太郎の家が仮庁舎でした。明治35(1902)年、現在の元町2番地に庁舎を新築・移転しました。町は、明治34(1901)年を、音更開基年(のちに開町年)としました。 標柱あり 案内板あり
016314 44 北海道 音更町 開進尋常小学校跡地 カイシンジンジョウショウガッコウアトチ 新通20丁目1番地12 42.977744 143.206716 明治34(1901)年、開発計画である北海道十年計画の一環として「北海道旧土人保護法」第9条(アイヌ民族が部落を形成する場所には、国費をもって小学校を設置する。)に基づく小学校の設置が各地に見られ、音更にも明治39(1906)年、音更尋常小学校(後の開進尋常小学校)が設置されました。アイヌの児童のみが在籍するこの学校には、開校以来、概ね20〜30人の児童が通い、就学率及び出席率は非常に高いものがありました。また、校舎の修繕に係る費用を部落全員から寄附を募って捻出したり、学校敷地内の植樹の際には、部落の青年会が作業に当たるなど、学校と部落が一体となって学校運営に取り組んでいました。やがて、「北海道旧土人保護法」の改正準備が進められる中、昭和6(1931)年、開進尋常小学校は廃止され、児童18名は音更及び下音更の各尋常高等小学校へ9名ずつに分かれて通学することとなりました。 標柱あり 案内板あり
016314 45 北海道 音更町 音更コタン跡 オトフケコタンアト 木野大通東18丁目1番地15 42.973349 143.208188 北海道庁は、明治20(1887)年から明治21(1888)年にかけて、散在するアイヌ民族を半ば強制的に国道241号線の北6線から北9線までの一帯に移住させ「音更コタン」を形成しました。明治32(1899)年、明治政府は「旧土人保護法」を制定して、勧農政策として一戸当り約5haの土地を給与し定住を図りました。しかし、狩猟漁労民族の伝統から、農耕には意欲なく土地を手放してしまい、勧農政策は失敗に終わりましたが、アイヌ民族が十勝開拓期に果たした役割は大きいものがありました。また、大正5(1916)年当時62戸189人が居住していました。その後、昭和5(1930)年当時24戸(河西支庁調査)、昭和25(1950)年当時28戸140人(音更村調査)が居住していました。 石碑あり 標柱あり 案内板あり
016314 46 北海道 音更町 化粧柳の群生地跡 ケショウヤナギノグンセイチアト 柳町仲区11番地2 42.970084 143.216424 幼木が白粉をまぶしたように見える化粧柳の成木が群生していた所。樹齢などの関係で、昭和42(1967)年に伐採されました。「柳町」という地名は、その名にちなんだものです。 標柱あり 案内板あり
016314 47 北海道 音更町 音更川丸太流し「あば所」陸揚げ場 オトフケガワマルタナガシ「アバショ」リクアゲバ 木野大通東13丁目3番地12 42.962583 143.210453 明治25(1892)年、北海道集治監十勝分監建設のために音更出張所から受刑者が、糠平周辺で建築用材を切出し流送し、北3〜4線付近のあば所で陸揚げしていました。十勝分監が明治28(1895)年に開庁した後も明治末期まで十勝分監の囚人によって帯広周辺の官公庁や学校などの建築用材として流送・陸揚げがされ、大正5(1916)年頃から音更国有林の豊富なパルプ資源に着目した王子製紙が造林事業・流送に参加し、その陸揚げ地が北6線東2号付近の通称「木野あば所」でした。王子製紙の造林事業・流送を請け負ったのが帯広の木材業者3者(高橋木工場・帯広木工場・十勝製材)でした。大正12(1923)年から同13年に士幌土功組合(士幌町)の灌漑施設が建設・完成し、木野地域への流送は中止になりました。 標柱あり 案内板あり
016314 48 北海道 音更町 伊福部昭音楽資料室 イフクベアキラオンガクシリョウシツ 木野西通15丁目8(音更町図書館内) 42.964933 143.20095 日本を代表するクラシック音楽の作曲家、伊福部昭は、父の音更村長就任に伴い、少年期から青年期を音更村で過ごしました。札幌二中(現札幌西高)の2年生の頃から独学で作曲を始め、北大を卒業後、最初の管弦楽曲「日本狂詩曲」がパリでチェレプニン賞を受賞する快挙を成し遂げ、その後も数多くの大作を発表。映画音楽の作曲家としても知られ、特撮映画「ゴジラ」や「ビルマの竪琴」など300本以上の映画音楽を手がけ、多数の賞を受賞しました。音更ゆかりの偉大な作曲家の資料を収集し、末永く保存していくため、平成17(2005)年11月、音更町図書館2階に資料室を開設しました。
016314 49 北海道 音更町 帯広第2飛行場跡 オビヒロダイニヒコウジョウアト 下音更北7線西7番地1 42.966594 143.192423 昭和19(1944)年から「帯広第二飛行場として開場されました。180haの広大な敷地に滑走路(1本長さ1200m幅20m)や誘導路が北6線から北8線まで南北に及んでいました。同年、本土決戦用として、帯広に移駐した飛行第一師団(浜松:通称鏑1046部隊)が第2飛行場に駐屯していますが、第2飛行場は実用飛行基地だったものの、戦局の急迫にともなって、いわゆるオトリ飛行場として、偽装した木製の飛行機は掩体壕(えんたいごう:一般的に装備・物資・人員などの敵の攻撃から守る施設)で覆い隠されていました。 標柱あり 案内板あり
016314 50 北海道 音更町 北部91部隊と給水塔(高架水槽) ホクブキュウイチブタイトキュウスイトウ(コウカスイソウ) 中鈴蘭元町1 42.954645 143.195855 北部91部隊軍事施設とともに、昭和18(1943)年、コンクリート製・高さ20mの高架水槽(給水塔)2基が建設されました。帯広第2飛行場の飛行ルートに支障をきたすとして1基は倒壊され、もう1基(西側)は昭和20(1945)年7月14日の音更空襲で米軍のロケット弾2発が命中、弾痕が残されたまま戦後91部隊兵舎が国立帯広病院(国立十勝療養所)となった後も平成8(1996)年まで使用されていました。貴重な戦争遺跡として保存運動もされましたが、自然倒壊の恐れがあるとして平成17(2005)年3月に解体撤去されています。 石碑あり 標柱あり
016314 51 北海道 音更町 北部91部隊弾薬庫跡 ホクブキュウイチブタイダンヤクコアト 中鈴蘭南1丁目2番地23地先 42.95173 143.19657 陸軍の弾薬などを保管するために昭和18(1943)年頃に建設されました。横14.45m、縦7m、高さ4.25mの鉄筋コンクリート製で高さ10mほどの土のうに覆い隠されていました。戦後、土地と建物は払い下げられ、住宅に改修され利用されていましたが、令和元(2019)年9月に取り壊されました。コンクリートの分厚い壁や建物の数倍に及ぶ基礎部分が弾薬庫の面影を残していました。 標柱あり 案内板あり
016314 52 北海道 音更町 木野村農場跡地 キノムラノウジョウアトチ 木野大通東9丁目2番地3 42.95241 143.206479 明治29(1896)年、岐阜県本巣郡生津村字柱本、木野村甚太郎ほか2名は約163haを無償で払い下げ出願(許可は明治31年)。土地は北3線から北6線、基線から東4号の区間。小作人は岐阜県から20戸が移住しました。農場管理人は八代哲次。明治30年初めに農場の一角を借り「上野製軸所」がマッチ軸を製造していました。大正14(1925)年、国鉄士幌線が開通し木野駅が開設。事務所を木野大通東9丁目に移転。駅近くに木野雑穀工場を設置し20人位で雑穀を精選し販売していました。今日、農場跡地は国道241号線を中心に市街地が形成されています。 標柱あり 案内板あり
016314 53 北海道 音更町 国鉄士幌線木野駅跡 コクテツシホロセンキノエキアト 木野大通西6丁目1番地25 42.948239 143.203923 木野駅は帯広駅から4.4km。木野村甚太郎所有の農場に設置されたので、駅名が木野になりました。この地帯は帯広市のベッドタウンで、開設当時「北帯広駅」にという陳情が村議会に提出されました。駅開設後、木野村事務所も移転し、駅中心に商店や雑穀工場等も増加しました。 標柱あり 案内板あり
016314 54 北海道 音更町 北海道集治監音更出張所跡 ホッカイドウシュウチカンオトフケシュッチョウジョアト 木野大通西6丁目1番地25 42.948217 143.203894 明治25(1892)年から3年間、北海道集治監十勝分監建設のために北海道集治監釧路監音更出張所(仮監)が北2線から北3線、基線から東1号の千野地域に設置されました。受刑者301人の役業は、分監建設、道路開削や未開地の開拓であり、音更川上流の糠平周辺から建築用材を切り出し、音更川を流送し、北3〜4線付近のあば所で陸揚げして製材、十勝川を渡船で運び木軌道で十勝分監まで運搬しました。この仮監には、木挽工場、大工小屋、柾割工場、炊所、監房、戒護部など8棟があり、製材や鍛冶、炭焼きが行われていました。十勝分監は明治28(1895)年に開庁してました。 標柱あり 案内板あり
016314 55 北海道 音更町 松浦武四郎歌碑 マツウラタケシロウカヒ 鈴蘭公園2番地 42.943497 143.201479 松浦武四郎は、安政5(1858)年、箱館奉行所の命を受け石狩調役下役、飯田豊之助とアイヌ案内人ら10名で石狩を出発し、富良野から帯広・音更・大津に入り1ヶ月間十勝を探検し、踏査内容を「十勝日誌」「東蝦夷日誌」に著しました。この歌は、宿泊した音更川河口付近の惣乙名(そうおとな、総酋長)シラリサの家で、当地の将来の発展を予見して詠んだものです。詠んだ所は「モツケナシ」の高台(富丘)です。明治2(1869)年、松浦武四郎は、蝦夷地を「北海道」と命名しました。大正8(1919)年、帯広・十勝開拓の由来を刻み、鈴蘭公園内にこの碑を帯広開町記念碑として建立されました。 石碑あり 案内板あり
016314 56 北海道 音更町 千野農場跡地 チノノウジョウアトチ 木野大通西3丁目2番地5 42.942188 143.20279 明治31(1898)年、東京在住の千野儀正は河東郡下士幌、音更原野と河西郡帯広の土地を無償で払い下げを受けました。面積約190ha、南北は下音更北1線から北3線、東西は基線から東4号までの区域。農場は音更川と十勝川の合流点で、いく度となく洪水に襲われました。管理人の蓮佛常蔵は、小作農民の意見をよく聞いて対応していました。彼は、地域発展に尽し、住民の厚い信頼がありました。明治、大正、昭和にかけて、千野市街には100名規模の雑穀工場があって雑穀の町として繁栄しました。 石碑あり 案内板あり
016314 57 北海道 音更町 開成橋跡と十勝大橋 カイセイバシアトトトカチオオハシ 木野大通西1丁目2番地 42.939551 143.202265 明治38(1905)年5月、十勝川両岸の有志は「帯広音更架橋組合」を作り、私設で有料の、十勝川初の木橋「開成橋」(橋長94.6m)を架橋しました。通行料は人2銭・馬4銭・馬車8銭でした。この年、釧路・帯広間に鉄道が開通し、音更村から帯広町への雑穀等農産物が持ち込まれ、往来は活気に満ち溢れました。その後、洪水で何度も流失。明治44(1911)年国費の木橋「河西橋」(橋長112m)。大正10(1921)年に2代目「河西橋」(木橋、橋長185m)。昭和15(1940)年、東洋一のコンクリート橋「十勝大橋」(橋長369m)。平成8(1996)年斜長橋「新十勝大橋」(橋長501m)と架け替えられました。 標柱あり 案内板あり
016314 58 北海道 音更町 ヲトケフブトと松浦武四郎止宿地 ヲトケフブトトマツウラタケシロウシシュクチ 宝来南1条8丁目2番地 42.943335 143.22797 江戸時代の末、松浦武四郎は蝦夷地調査を行い、十勝地方内陸部の調査は、安政5(1858)年の3月と7月に行っています。音更川の川口は、「ヲトケフブト」といわれ、武四郎はその2〜3丁ほど下流にあった惣乙名(トカチ場所総首長)シラリサの家に止宿しました。その時、この地の将来の発展を予想し、次の歌を詠みました。「このあたり 馬の車のみつぎもの 御蔵を立てて 積まほしけれ —東蝦夷日誌—」。内陸部の踏査には多くの困難を伴いましたが、アイヌの人たちの協力のもと、その生活の実態や文化の重要性を学び、それを記録することに力をそそぎました。 標柱あり 案内板あり
016314 59 北海道 音更町 越中渡し(渡船場)跡 エッチュウワタシ(トセンバ)アト 宝来南2条7丁目 42.9394 143.225723 十勝・音更の開拓にとって、渡し船は、重要な交通手段でした。越中渡船場は、この地モツケナシ(現富丘)とオベリベリ(現帯広市立東小学校付近)間を往来する「渡し船」として、明治33(1900)年7月官営で開設され、後に民間委託で越中人の新居氏が経営したので「越中渡し」と呼ばれました。人だけでなく、牛・馬・馬車・馬橇(ばそり)等を運び、当時は、音更と帯広間の重要な交通手段でした。渡船場近くには、待合所や日用雑貨店、後には中島雑穀検査所もできるなど、収穫時の秋には特に往来する人で賑わいました。しかし、昭和15(1940)年に「十勝大橋」が開通するなど、越中渡しは、昭和27(1952)年その役割を終えました。 標柱あり 案内板あり